ミュージカル「エリザベス・アーデンvs.ヘレナ・ルビンスタイン」をみにいった。

 

ミュージカル「エリザベス・アーデンvs.ヘレナ・ルビンスタイン」

Elizabeth Arden vs. Helena Rubinstein

脚本  ダグ・ライト

音楽  スコット・フランケル

歌詞  マイケル・コリー

翻訳 / 訳詞 / 演出  G2

音楽監督 桑原あい

振付 藤林美沙

美術 松井るみ

照明 高見和義

音響 大野美由紀

衣裳 十川ヒロコ

製作  TBS / 研音

 

上演時間:1幕80分/休憩20分/2幕80分

 

戸田さんの動画

パティ・ルポーンさんのファンらしい、2017年に同じくヘレナ・ルビンスタインの役Patti LuPone 2017年ミュージカル主演女優賞『ウォー・ペイント』

トニー賞他に

ミュージカル主演女優賞クリスティン・エバーソール

ミュージカル装置デザイン賞デヴィッド・コリンズ 

ミュージカル衣装デザイン賞キャサリン・ズーバー

 

ホームページを記録

エリザベス・アーデンvs.ヘレナ・ルビンスタイン -WAR PAINT- | 2023年公演 | 公演情報やキャスト紹介

 

さすが、最近に作られたミュージカル

ジェンダー、女性の仕事、こうあるべきというような違和感がほとんどない

女性がトップ 雇われた男性の方が苦労している話だから

現代にも通じる、トップが昔の成功体験に囚われて〜や

擬似医療

ブランド志向

イメージ戦略

広告戦略など時代とともに、たくましく商品開発してきた軌跡はおもしろい

そもそも、倫理など後付け

いまなら、セクハラ、パワハラと言われる表現が至る所に出ている昔の脚本(だから最近とても違和感をかんじるのだけれど)。

化粧品に何を使用していようが、健康被害がでなければOK

少々の誇大広告だってなんのその

でも、時代が変化

成分を記載する義務、

暴露された裏事情

ターゲットの変遷、イメージ戦略の練り直しなど

現代にも通じる種々が散りばめられた作品

 

プログラムに晩年まで演じ分けないとと出ていたが

明日海 りお(1985年-)

戸田 恵子(1957年 - )は 

2023年公演時に38歳と66歳

ブロードウェイ主演の二人は

パティ・ルポーン(Patti LuPone, 1949年 -

クリスティーン・エバーソール(Christine Ebersole、1953年

2017年公演時に68歳と64歳

 

二人とも、美の象徴、セレブへの憧れ、不老不死?のような存在となっていなければいけないなかで、どうやって年齢を出すのか。

晩年も杖以外はあまり年齢が感じられなかった。まあ それでいいのかもしれないけれど〜。

戸田さんもこの年齢差でよくぞ‥とおもった。そりゃ、晩年もやりすぎできなかったでしょう。

 

上原理生さん、吉野圭吾さんで 

明日海りお 上原理生

戸田恵子 吉野圭吾

ペアらしい

最後の挨拶(お辞儀)順番は吉野圭吾→上原理生→戸田恵子→明日海りお(ラスト)

であった

アンケートを書くと、

シールがもらえた(写真左下)

プログラムは2000円 

化粧品も売られていた。(大阪公演)

客席はほぼ女性だった

 

ヘレナ・ルビンスタインは大実業家で、調べたら『ヘレナ・ルビンスタイン肖像画賞』などもつくっていたらしい。

劇中で『あの似顔絵』 『肖像画です』が一斉に出されていた。

ブロードウェイ版でも

https://www.youtube.com/watch?v=eXz54Z5k7jw

に対し、日本版では

https://www.youtube.com/watch?v=60TzbbpspvA

となっていて、実は双眼鏡でじっくり見ると

戸田 恵子さんのお顔でかかれた肖像画が後ろの方によく見るとあって

これはみないとね〜

 

衣装も、日本人の体格に合わせて(ブロードウェイでもエリザベス・アーデンの方が背が高い)作り直してあって、これがまた斬新でよかった。

プログラムには

エリザベス・アーデン 157.5cmと小柄だった

ヘレナ・ルビンスタイン さらに小柄な147cm

 

 

プログラムに美容ジャーナリストの齋藤薫先生の解説が出ていて

そこでは、この男性陣の入れ替わり、あいての従業員の引きぬき、相手のサロンの近くへの出店など本当のことらしく、このバトルがなければコスメ史は変わっていただろうと

 

歴史的事実

エリザベス・アーデン

エリザベス・アーデン - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Elizabeth_Arden

エリザベス・アーデン(Elizabeth Arden, 1878年12月31日 - 1966年10月18日)

エレガントと上品さは彼女の生涯のテーマで、それは彼女が上流階級の婦人を相手に経営していたレッドドアサロンを中心に作り上げられていった。 

1909年、アーデンは同じく文化人であるエリザベス・ハバードとパートナーシップを結んだ。商号を希望していたグラハムは、サロンの看板代を節約するために「エリザベス」を使用した。彼女は近くの農場から姓の「アーデン」を選んだ。そこで、「エリザベス・アーデン」という屋号ができた。そこから、アーデンは1910年にニューヨークにレッド・ドア・サロンを設立し、以来、彼女の名前の代名詞となっている

1912年、アーデンはフランスへ行き、フランスのビューティーサロンで美顔術について学んだ。彼女は、自身で作った口紅と白粉を持って帰国。当時、メイクアップといえば舞台の出演者と娼婦のものとされており、アーデンは北米にモダンなアイ・メークアップを紹介した。また、化学者ファビアン・スワンソンと共同で顔用クリームを考案した。

1915年、アメリカ人銀行家トーマス・ルイスと結婚し、アメリカの市民権を得た。 

同年、海外販売を開始。1920年代から1930年代にかけ、アーデンと常に競い合ったのは、ヘレナ・ルビンスタインである。

1934年、彼女はメイン州ローマに、米国初のデスティネーション型ビューティースパである「メインチャンス」レジデンシャルスパをオープンしました。1970年まで運営された。

1962年、アーデンは化粧品産業への貢献が認められ、フランス政府からレジオンドヌール勲章を授与された。

アーデンの成功は化粧品にとどまらず、全身美容に着目しヨガをもとにしたエクササイズを考案し郊外にリゾートスパを開業したり、1943年からオスカー・デ・ラ・レンタやチャールズ・ジェームズを雇ってファッション事業に参入した。 馬主をするなど競馬にも深く関わり、1943年にはメインチャンスファーム(Maine Chance Farm)という生産牧場を開設している。主な所有馬に、1945年の全米2歳チャンピオンスターパイロットやロバート・トーマス・スミス調教のもとケンタッキーダービーに優勝したジェットパイロットなどがいる。 

エリザベス・アーデンは、サロンやマーケティングキャンペーンを通じて、女性に化粧の仕方を教えることを重視し、化粧品の科学的処方、ビューティーメイク、アイメイク・リップメイク・フェイスメイクの色の調整などの概念を開拓しました 

エリザベス・アーデンは、それまで化粧が下層階級や売春婦と結びついていた時代に、化粧を淑やかなイメージのために適切で、さらには化粧を必要なものとして確立したことに大きく貢献した。彼女は、中年や平凡な女性をターゲットにし、美容製品が若々しく美しいイメージ戦略を築いた。

アーデンは熱心な参政権論者であったとされ、1912年に女性の権利のためにデモ行進をしたという話もある。彼女が連帯の証として行進者に赤い口紅を支給したというのは俗説であるが、これを裏付ける現代の証拠はほとんどない。 

34歳にフランス行き 37歳結婚

1920年代から1930年代 42歳〜62歳

第二次世界大戦は1939年〜1945年

88歳没

エリザベスアーデン公式ページ

https://www.elizabetharden.com/

 

ヘレナ・ルビンスタイン

ヘレナ・ルビンスタイン - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Helena_Rubinstein#See_also

ヘレナ・ルビンスタイン(Helena Rubinstein、本名:Chaja Rubinstein、1872年12月25日 - 1965年4月1日)は、ポーランド出身のアメリカの実業家。化粧品会社ヘレナ・ルビンスタイン社の創業者。世界有数の女性大富豪の一人。

18歳で親戚を頼ってオーストラリアに移住。1902年、メルボルンに世界初のビューティサロンを開く。1908年、ロンドンにビューティサロン「サロン・ドゥ・ボテ・ヴァレーズ」を開く。

顧客にはヘレナとしてしか知られていなかったルビンスタインは、すぐにファッショナブルなコリンズ・ストリートにサロンを開く余裕ができ、肌を「診断」し、適切な治療法を「処方」する顧客に科学としての魅力を売り込むことができるようになった。

ロンドンにサロン・ド・ボーテ・ヴァレーズを設立する資金を得ることができました。こうしてルビンスタインは、世界初の化粧品会社を設立したのです。ルビンスタインの事業は大成功を収め、後年、その巨万の富を教育、芸術、健康などの分野で慈善事業に役立てました。 

ルビンスタインは急速に事業を拡大した。1908年、妹のチェスカメルボルンの店を引き継ぎ、10万ドルを持ってロンドンに渡り、国際的な事業展開を開始した。(当時、女性は銀行からの融資を受けることができなかったので、資金は彼女自身のものであった)

1908年、ポーランド生まれのアメリカ人ジャーナリスト、エドワード・ウィリアム・タイタスとロンドンで結婚。二人の間には、ロイ・ヴァレンタイン・タイタス(ロンドン、1909年12月12日-ニューヨーク、1989年6月18日)とホレス・タイタス(ロンドン、1912年4月23日-ニューヨーク、1958年5月18日)の息子がいる。 

1912年、パリにビューティサロンを開く。1914年第一次世界大戦から逃れるためニューヨークに移住しビューティサロンを開く。

ヘレナは、無限に広がるアメリカ市場を開拓し、競合他社を尻目に巧みに利用していった。これが、同じく化粧品業界の著名な女性であるエリザベス・アーデンとの激しい対立の始まりだった。ルービンシュタインもアーデンも、没年はほぼ同時期だが、ともに社会的なクライマーであった。二人とも、効果的なマーケティングと豪華なパッケージ、きちんとした制服を着た美容師の魅力、有名人の推薦の価値、過剰な価格設定の認識、スキンケアという疑似科学の宣伝に敏感だった。アーデンとのライバル関係は、彼女の生涯を通じて続いた。ルービンシュタインはライバルについて、「彼女のパッケージと私の製品で、私たちは世界を支配することができた」と語っています。

1917年から化粧品の製造と卸売業に進出した。 後から登場したエリザベス・アーデンと、長年、化粧品業界のライバルとして争う。また、美術品コレクターとしても高名であり、特にアフリカン・アートのコレクションでは先駆者であった。

1928年、彼女はアメリカの事業をリーマン・ブラザーズに730万ドル、(2022年には1億2700万ドル)で売却した。世界恐慌の発生後、彼女はほぼ無価値だった株式を100万ドル以下で買い戻し、最終的に会社の価値を1億ドルにまで高め、アメリカのほぼ10都市にサロンとアウトレットを設立した。この武勇伝とルービンシュタインの初期のビジネスキャリアは、ハーバード・ビジネス・スクールの最近の研究対象になっている。その後、5番街715番地のスパには、レストラン、ジム、画家ジョアン・ミロの敷物があった。彼女は画家のサルバドール・ダリにパウダーコンパクトのデザインを依頼し、自身の肖像画も描いた。

離婚後、1938年にヘレナはアルチル・グーリエリ=チコニア王子(Courielli-Tchkonia、1895年2月18日グルジア生まれ、1955年11月21日ニューヨークで没)と結婚した。グーリエリ=チコニアはルービンシュタインより23歳年下であった。

彼女はテルアビブにヘレナ・ルビンスタイン現代美術館を設立し、1957年にはオーストラリアにヘレナ・ルビンスタイン巡回美術奨学金を設立した。1953年には慈善団体ヘレナ・ルビンスタイン財団を設立、健康、医療研究、リハビリテーションを専門とする団体やアメリカ・イスラエル文化財団、イスラエル人への奨学金に資金提供した 

ルース・ブランドンは、「女性として初めて自力で億万長者になったが、その偉業は主に宣伝のうまさに負うところが大きい。彼女は、「恐怖を煽るようなコピーに、少しくだけた表現を加えた」宣伝方法を知っており、「問題のある」肌質という概念を導入した。彼女はまた、マーケティング疑似科学を用いる先駆者でもあり、多くの広告で白衣を着用していた。しかし、彼女の唯一のトレーニングは、ヨーロッパのスキンケア施設を2ヶ月間見学したことだった。彼女は、消費者の身分不相応な不安を操る術も心得ていた: 製品が最初に失敗した場合、彼女は知覚価値を高めるために価格を上げるだろう」。
ヘレナ・ルビンスタイン肖像画は、「Boans - Helena Rubinstein portrait prize」とも呼ばれ、オーストラリアのアーティストによる肖像画に毎年300ポンドを授与する賞で、ヘレナ・ルビンスタイン財団(2011年解散)が授与し、主に西オーストラリアのクロード・ホッチン・ギャラリーで上演されていました。

30歳でビューティサロンを開く、36歳でロンドンに40歳でパリに

42歳にNYへ 45歳から化粧品の製造と卸売業 36歳で結婚、息子二人、66歳で再婚

1920年代から1930年代 48歳〜68歳

93歳没

 

あ、ハリーフレミング出てこなかった。

プログラムに出ていた。

1933年美容界で最も有能と言われていたハリー・ジョンソンをひと財産投げ打って雇い入れる。役員の椅子を与え全幅の信頼を置いていたが、

1937年にヘレナ陣営のハリージョンソンをエリザベス・アーデンが引き抜く。

1938年エリザベスの元夫トミーを雇い入れる。トミーはその後ヘレナの下で元妻をスパイする仕事。

また、エリザベス・アーデンは1942年に17歳年下の自称ロシアのプリンス、ミハイール・エフラノフと再婚。彼の爵位がヘレナの2番目の夫グリエより上というのが魅力だったが、程なく経歴詐称がわかり離婚。

実際には二人は互いの名を口にしないまま、対面した記録は残っていない

 

 

ヘレナ・ルビンスタイン財団のページに似顔絵、いや肖像画といわれた数枚がでている

ヘレナ・ルビンスタイン化粧品

https://www.helenarubinstein.jp/

ヘレナ・ルビンスタイン財団

https://web.archive.org/web/20080205101404/http://www.helenarubinsteinfdn.org/

ピカソのヘレナ・ルビンスタインの肖像画

https://www.pinterest.jp/pin/663999538781532055/

そのほか

ヘレナ・ルビンスタインと芸術家たち。【アート収集家 3】|Paris|madameFIGARO.jp(フィガロジャポン)

 

 

ウォーペイント(ブロードウェイミュージカルでの題名)

WAR PAINT

 A NEW MUSICAL

Patti LuPone & Christine Ebersole in War Paint the Musical on Broadway

https://www.youtube.com/watch?v=eXz54Z5k7jw

2017トニー賞

https://www.youtube.com/watch?v=1VyGfM92do4

 

https://en.wikipedia.org/wiki/War_Paint_(musical)

ウォーペイント

ウォー・ペイント WAR PAINT – Broadway Square

WAR PAINTとは、アメリカン・インディアンが争いに出る前に顔に書いたり塗ったりする化粧のことを指すが、最近ではこれが俗語で女性の化粧のことを指すこともあるところからこの題名にかけている。

 

長編ドキュメンタリー映画『The Powder & the Glory』

アメリカのウィキペディアより

https://en.wikipedia.org/wiki/Helena_Rubinstein#See_also

アン・キャロル・グロスマンとアーニー・ライズマンによる長編ドキュメンタリー映画『The Powder & the Glory』(2009年)は、ルビンスタインとエリザベス・アーデンのライバル関係を詳細に描いています。

A feature-length documentary film, The Powder & the Glory (2009) by Ann Carol Grossman and Arnie Reisman, details the rivalry between Rubinstein and Elizabeth Arden. 

オーストラリアの劇作家ジョン・ミストによるコメディ『リップサービス』は、ルビンスタインの人生とキャリア、そしてエリザベス・アーデンやレブロンとのライバル関係を描いている。Lip Service』は、2017年4月26日にロンドンのパークシアターで『Madame Rubinstein』というタイトルで初演され、同年8月にシドニーのアンサンブルシアターで公開されました。

The comedy Lip Service by the Australian dramatist John Misto chronicles the life and career of Rubinstein and her rivalry with Elizabeth Arden and Revlon. Lip Service premiered April 26, 2017, at the Park Theatre in London, under the title Madame Rubinstein, before opening at Sydney's Ensemble Theatre in August of the same year.

 

ライバルのレブロン

レブロン - Wikipedia

https://en.wikipedia.org/wiki/Revlon

レブロン (Revlon Incorporated) は、アメリカの化粧品メーカー、ブランドである。 大恐慌の最中の1932年にニューヨークで、チャールズ・レヴソンと科学者の弟ジョゼフ、チャールズ・ラッチマン(RevlonのLは彼に由来する)の3人で創業した。最初の商品はネイルエナメルだけであったが、6年後には大企業に成長。現在はスキンケア・メイク・香水も販売する国際的企業である。

1937年、レブロンはポリッシュを百貨店や薬局で販売し始めた。6年という短い期間で、同社は数百万ドル規模の組織となった。1940年には、レブロンはマニキュアライン全体を提供し、口紅もコレクションに加えました。

第二次世界大戦が終わる頃には、レブロンアメリカでナンバー2の化粧品メーカーになっていました。 

1940年代までのレブロンの雑誌広告は手描きで、ほとんどがモノクロでした。1945年、レブロンフルカラーの写真広告を全国の主要雑誌や店舗に打ち出すようになりました。レブロンは、エキゾチックでユニークな名前を持つお揃いのマニキュアや口紅を発表しました。これらの広告は、リチャード・アヴェドン、セシル・ビートン、ジョン・ローリングスなど、当時の一流ファッション写真家たちによって撮影されました。これらの広告の中には、「Paint the Town Pink」や、ドリアン・リーが出演した1945年の「Fatal Apple」の広告もありました。1947年レブロンは「バチェラーズカーネーション」、1948年には「スウィートトーク」を発表。
1950年、レブロンは赤い口紅とネイルエナメル「Where's the Fire」を発表し、後に「Fire and Ice」の広告を使用しました。世界初のスーパーモデルの一人であるドリアン・リーは、レブロンの歴代広告の中でも最も印象に残る広告に出演しました。1946年、ドリアンは "Ultra Violet "のために紫の花で覆われ、淡い紫のシーツに包まれました。1947年、ドリアンは "Fashion Plate "に出演した。1953年、36歳の時、"Cherries in the Snow "に出演。同年、リチャード・アヴェドンが撮影した伝説の広告「Fire and Ice」に出演。当初、ドリアンはシルバービーズのタイトなドレスに、巨大な赤いラップを巻いて登場した。黒髪には銀色の渦巻きがあり、赤い長い爪のある手を胸の前に置いていた。チャールズ・レブソンはアヴェドンのオリジナル広告を「性的すぎる」として却下し、今度は開いた手を片方の腰の前に、もう片方を頬の前に置いて撮影し直した。この広告は、官能的な広告の隣にある全ページのクイズによって、マディソンアベニューの伝説となった。それから約50年後の2010年11月、レブロンは女優ジェシカ・ビールを起用して1953年の雑誌広告「Fire and Ice」を再現し、このキャンペーンを "lips and tips" と名付けて、Fire and Iceの口紅とネイルカラーを限定発行すると発表しました。

ドリアン・リーの15歳年下の赤毛の妹、スージー・パーカーも、1950年代にレブロンの雑誌広告を数多く撮影しています。スージーとチャールズ・レブソンは、いつかはドリアンと結婚したいと思っていたが、互いに軽蔑しあっていた。ある時、スージーレブロンから受け取る「ピーナッツ」のような給料に文句を言ったため、彼はそれ以上スージーを雇うことを拒否した。しかし、リチャード・アヴェドンは、あるレブロンの広告のために他のモデルを撮影した後、土壇場で、時には深夜にスージーを呼び寄せ、一緒に撮り直しをすることがありました。スージーが深夜に撮影した、海に浮かぶ野生の白馬の広告「ストーミー・ピンク」でもそうだった。アヴェドンはそのとき、広告に写っているのはスージーではなく、「バブルス」という名前のモデルか、その他の作り物の名前であるとレブソンに告げた。

1970年、レブロンアメリカの化粧品会社として初めて、アフリカ系アメリカ人のモデル、アイコンのナオミ・シムズを広告に起用した[50]。1970年代後半、レブロンは、特に有色人種の女性のための化粧品ライン、「ポリッシュド・アンバーズ・コレクション」を作り、広告キャンペーンにファッションモデルのアイコンを起用し、歴史を作った。また、レブロンは次のような点でも注目されました。

劇中ではここが、TVコマーシャル、若者層ターゲットにと時代の波をよんだとでていた。

プログラムには

1995年レブソンがクイズ番組のスポンサーになり抜群の知名度を獲得

ヘレナの死後、彼女のアパートを買取、2年をかけてヘレナが嫌う趣味で改装

あ、でも1995年ってエリザベス・アーデンもヘレナ・ルビンスタインもなくなってる。

 

劇中ではエリザベス・アーデンが、カラフルなマニュキュアを売りに来たレブロンの男性と共に来た若い女性に目をかけた話が出てきたが、そういった記事はみつけられなかった。

2016年レブロンはエリザベス・アーデンを買収しているが、2022年業績は悪化らしい。プログラムには破産申請とでていた。

 

 

伝説の広告「Fire and Ice」というのが、劇中に出てきた銀色の服に赤いガウンの

https://www.bustle.com/p/revlons-fire-ice-campaign-in-1952-was-the-first-ad-to-acknowledge-women-wear-makeup-for-themselves-12159808