天皇のディナー~歴史を動かした美食~の覚書 スッポンのコンソメ カエルのもみ焼きなど

 天皇のディナー~歴史を動かした美食~

 

 

 2019年12月30日(月) 午後7時00分(120分 BSプレミアム

歴史のかげに“美食”あり!!天皇の食卓を彩った料理は、日本人の食生活だけでなく歴史そのものも動かしてきた。飛鳥時代、和食の原点となった天武天皇の肉食禁止令。江戸時代、徳川家が天皇に権勢を誇示した究極のご馳走。大正時代、英国皇太子をもてなした史上最高の宮中晩餐会…。歴代天皇の「食」にまつわる驚きの事実を掘り起こし、贅を尽くした料理を再現。後世への影響も味わう<歴史×食>の極上エンターテイメント。

  出演者ほか

【司会】谷原章介

【出演】大和田伸也足立梨花福田充徳

【ゲスト】ヤマザキマリ久住昌之山本博文

【語り】花澤香菜

保里 小百合 

 

 

ヤマザキマリ 日本の女性漫画家・文筆家。東京造形大学客員教授 イタリア在住 イタリアの食文化に詳しい

 久住昌之 日本の漫画原作者、漫画家、エッセイスト、装丁家、作曲家。孤独のグルメ の作者

 山本博文 日本の歴史学者東京大学大学院情報学環教授、史料編纂所教授。日本近世史専攻。

 

 

 ヤマザキマリ氏のコメントがいろいろと興味深くて

覚書しておくことにした

もともと彼女のファンで テルマエ・ロマエが代表作ではありますが、

世界の果てでも漫画描き

 

世界の果てでも漫画描き コミック 1-3巻セット (集英社クリエイティブコミックス)

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 それではさっそくBounappetito!

 などに食に関することも書かれています

17歳にイタリア・フィレンツェに単身渡り、貧困生活ゆえに賞金目当てで漫画を描き始め、イタリアの古代ローマ好きの男性に恋い焦がれられ、結婚 その後もいろいろな国で住まわれ、国境のない生活をされている方ですが、

歴史、食に関してすごい知識をおもちでした

wikipediaをみると

 イタリアの星勲章コメンダトーレ章を授賞した。日本人のマンガ家としては初の授賞

 

紫綬褒章をとられた萩尾望都氏といい、漫画と馬鹿にする時代ではないと思う

 

 

さて、TV

歴史に沿って最後にまとめてあった

その順番でまとめておこう

話は潰れかけの レストランミカドのメニューを立て直そうという話で展開

 

 

外圧転じて和食となす 飛鳥時代 7世紀 天武天皇の米 鯛と醤酢(ひしおす)

 奈良のすなかけ祭り 五穀豊穣の田植え祭り

飛鳥時代天武天皇から

奈良文化財研究所

日本人の食生活を変える政策

牛馬犬猿鳥を食べるのは禁止

4/1-9/30まで食べるな お米を作っている時期

肉をたべるな ではなく 原田信男氏の説

猪 鹿 かも鹿(田をあらす害獣)が入っていないし 肉食禁止令ではないのではないか

 東アジア情勢 中国帝国から外圧を受けていた

いつ刃をむけられるか 危機

兵力を蓄える 大量の米が必要だった 米

大嘗祭 天皇が即位した時にする儀式 米を神格化した

1300年前の木の札 木簡 国宝もある

 食べ物の名前 地名が書かれている 荷札だった

全国の食べ物が集まる仕組みをつくった

食す国 おすくに

その土地のものを全て食べる 食べる 支配するということ

 

壬申の乱で即位した

国をまとめるため 中央集権を

その一つとして食をあつめ ここから和食に発展

 

料理長 足立秀滋氏

宮廷料理を10年以上研究

鯛のお刺身 

 生で食べないとでてこないという けいちゅうが古代のトイレからみつかっているので刺身で食べていたのではないか とのこと

蘇 古代のチーズ 牛乳を12時間かき混ぜ続ける かたい

 栄養価が高く 薬 健康食

サメの干物

赤米

 ひしお 大豆を発酵させた醤油のルーツ 味噌と醤油の中間のような

醤に酢を混ぜた 刺身のタレに

 

その後 米をつかって ひもちする なれずしにかわった

 

 

その時に一番美味しいものが天皇のところにあつめられた

統治

身分が上がるとまず塩

次に酢

醤が出てくると身分が上

 

ヤマザキマリ氏のコメント

魚醤がローマで大事だった

身分が上がると 特殊なうつぼの臓物とかから作られた魚醤とかになっていく

醤は人間の味覚が進化したもの

 

その珍しいものの駆け引きなどがいろいろとあった

ローマでも領地が広がる 食材も広がる 

 

 

山本博文氏のコメント

日本の経済の中心が米になっていく

皇室もだからこそ米を大事にした

 

 

 

流転の後醍醐天皇を支えた郷土料理 鎌倉南北朝時代 14世紀

 

岡山県津山市 初雪というお菓子  武田侍喜堂本舗

後醍醐天皇が来られた時に献上されたお菓子

鎌倉時代末期 幕府に反旗を翻すも失敗 

流転の人生の一コマにでてきたお菓子

そのままだと硬いが 火であぶるとふっくらとやきあがる

砂糖がちょっとだけはいったおかき

薄くて軽くて 携帯食

 

岡山 親見 ご飯石でお食事された と言われている

わらび 茅を箸かわりに

 

足利尊氏の反乱で

奈良県吉野にまたいくことに、その時の好物 

アカガエル もみ

かえる料理 もみ焼き

こんがり焼くと鶏肉みたい

 

山本博文のコメント

後醍醐天皇は傍流の天皇 支援してくれたのが悪党や民衆

その方々に支えられていたので 庶民の暮らしは心強かっただろう

 

 ヤマザキマリ氏のコメント

ローマはかえるどころかフラミンゴの舌やトキの舌や

ありとあらゆる珍味は実験します

美味しいと思える感覚をどこまで広げられるか

それによって視野が広がる

民衆の立場を知ったり

 

 

水尾天皇への饗応料理 徳川家のすぎたか盛り 江戸時代前期 17世紀

萬亀桜 小西将清氏

生間流式包丁(いかまりゅうしきぼうちょう)

包丁と箸だけで調理しもりつける技 平安時代中頃から明治時代まで天皇家で調理されていた

長さ20mのまきもの

膳にのった料理の絵

水尾天皇二条城行幸献立絵図

1626年

徳川秀忠&家光が5日間にわたって学問と芸術を好んだ御水尾天皇を贅を尽くした宴会で接待した

この裏には徳川家の野心があった

 

禁中並公家諸法度 1615年公布で幕府の統制下に

慶長20年(1615年)大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした

家康の孫娘和子の入内申し入れ 徳川の血をひく天皇を画策 しかし、入内前にすでに後継になる男の子が誕生していた

そのためその母と子をひきはなした

怒った天皇は譲位するといった

譲位すると、徳川家の血を引く子供があとをつげなくなるなど

ややこしい世情の時であった

 

その時のややこしい世情はwikipediaによるとこんなかんじ

天皇が即位すると大御所・徳川家康は孫娘・和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。しかし、入内は大坂の陣や元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院崩御などが続いたため延期された。元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、天皇と寵愛の女官・四辻与津子との間に皇子・皇女が居た事が徳川秀忠に発覚すると入内は問題視される、翌元和5年(1619年)9月15日に秀忠自身が上洛して、与津子の振る舞いを宮中における不行跡であるとして和子入内を推進していた武家伝奏・広橋兼勝と共にこれを追及した。そして万里小路充房を宮中の風紀の乱れの責任を問い丹波国篠山に配流、与津子の実兄である四辻季継・高倉嗣良を豊後国に配流、更に天皇側近の中御門宣衡・堀河康胤・土御門久脩を出仕停止にした。これに憤慨した天皇は譲位しようとするが、幕府からの使者である藤堂高虎天皇を恫喝、与津子の追放・出家を強要した(およつ御寮人事件)。元和6年(1620年)6月18日に和子が女御として入内すると、これに満足した秀忠は、今度は処罰した6名の赦免・復職を命じる大赦天皇に強要した。 

寛永2年(1625年)11月13日には皇子である高仁親王が誕生する。寛永3年(1626年)10月25日から30日まで二条城への行幸が行われ、徳川秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永4年(1627年)に紫衣事件、家光の乳母である福(春日局)が無位無冠の身でありながら朝廷に参内する(金杯事件)など天皇の権威を失墜させる江戸幕府のおこないに耐えかねた天皇寛永6年(1629年)11月8日、幕府への通告を全くしないまま次女の興子内親王明正天皇)に譲位した(高仁親王が夭折していたため)。

 

すぎたか盛り いろいろな食材を高く盛る (直径10cm 高さ20cmというような盛方に見える)

神様にそなえる神前の形式

宮中の伝統も考慮 天皇をたてて 華やかな演出も

白鳥 鶴などの高級食材も

 

鴫壺(しぎつぼ) 武家的な食材 茄子をくりぬいて鴫の肉をのせて 鴫の頭をのせた

夏野菜の茄子 10月の渡鳥 季節の違うものをあわせる贅沢な演出

 

各地から取り寄せた名物

全部再現すると100人前

一部のみ再現

すぎたか盛り のエビ 数の子 カラスミ(現在は一切れ2000円くらい この盛方にすると10万円分くらいはある)

島之臺裳盛こぼし(しまのだいしょうもりこぼし)

 かわった皿に海の幸と山の幸

 中国の神仙思想 仙人 不老不死で長寿

龍さし コイをつかった一品

 急流をのぼりきった鯉が龍に変身するというはなしからの一品

 鯉の背骨がみえるように 龍のように形を作って

 龍は天皇をあらわし 力強さと繁栄ぶりを表す

 

 

天皇家への敬意意外に

徳川家の権勢もみせつけるものもあった みたこともないだろうどうだっと

 たまごふわふわ  江戸時代にほとんど卵料理はなかった

 南蛮料理から

 ポルトガル人の宣教師から

 卵に出汁 

 炒り卵のような 茶碗蒸しのような でも素朴な

 

有平糖 信長の好物だった

 南蛮から伝わった最先端の食べ物

 アリフェロワ ポルトガル語の砂糖からつけられた

 

 

武力でなく食べ物で力を示す

この2ヶ月後 徳川家の和子との間に男子を授かった

 

 

山本博文 氏のコメント

二条城 徳川家が天下をおさめる場所でもあり

天皇家といい関係とのアピールでもある

その前の豊臣家の聚楽第行幸より数倍華やかにと

 聚楽第行幸(じゅらくだいぎょうこう)とは、豊臣秀吉・秀次親子(養父子)の招請により、1588年(天正16年)と1592年(天正20年)に行われた天皇行幸である。ここでは、1度目と2度目に分けて説明する。 1度目の行幸 豊臣秀吉が関白に任ぜられ、京都に邸宅兼城郭である聚楽第を築いたさいに、正親町上皇後陽成天皇を招き行ったもの。 2度目の行幸 豊臣秀吉から関白職と聚楽第を譲り受けた豊臣秀次が、自らが秀吉の後継者であることを世に示すため、再度、後陽成天皇を招き行ったもの。

wikipediaより

 豊臣家をしのぎ、家康も出来なかったことをやりとげたとアピール

水尾天皇もよろこんだと記録あり

 

 

ヤマザキマリ氏のコメント

見ただけでおなかいっぱい

すごい圧力を感じる

原稿を受ける前に接待をうけたことがあるが、目の前で寿司職人が寿司をにぎり始めた時の圧力をかんじたのと似ている と

食べ物の力にまさるものはないと 

つきるところ食べ物だな ということしめした話であったと

 

 しかし、その後紫衣事件(しえじけん)と和子の子供が幼くして死亡したので傷心した天皇が幕府の許可をえず勝手に譲位して亀裂

 

 

 

民衆を救った後桜町上皇(最後の女性天皇)の和りんご 江戸時代後期 18世紀

 wikipediaにもでている

天明7年(1787年)6月、御所千度参りに集まった民衆に対し、後桜町上皇から3万個のリンゴ(日本で古くから栽培されている、和りんご)が配られた。

天明の大飢饉 

wikipedia

江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788年(天明8年)にかけて発生した飢饉

 

御所千度参りもあり

夏の暑い時期 周囲の溝に湧き水をみたし

そのほか御所にあったリンゴを配った

 

和リンゴ 小ぶりですっぱい 夏の短い間しかでまわらない

リンゴは天皇家とゆかりが

奈良の春日大社 高倉天皇の植えられたもの

 

 

京都産業大学 若松正志教授コメント

しっかりした人

庶民に対するこころが強い

嘉祥(かじょう)お菓子を配る習慣

「御湯殿上日記」にもリンゴがおくられてきたことが書かれている

 

上皇の教えを受け継いだ17歳の光格天皇が幕府に禁中並公家諸法度に反する行為であったが、幕府に救済(お救い米の要請)を申し入れる

 

Wikipedia

 光格天皇(こうかくてんのう)日本の第119代天皇(在位: 1780年 - 1817年)

 後桜町天皇(ごさくらまちてんのう、1740年- 1813年)は、日本の第117代天皇(在位: 1762年- 1770年)

 Wikipedia

天明の大飢饉の際には幕府に民衆救済を申し入れた。ただしこれは、幕府が定めた禁中並公家諸法度に対する明白な違反行為であった。そのため、天皇の叔父でもある関白鷹司輔平も厳罰を覚悟して同様の申し入れを行った。これに対して幕府は米1,500俵を京都市民へ放出する施策を決定、法度違反に関しては事態の深刻さから天皇や関白が行動を起こしたのももっともな事であるとして不問とした(御所千度参り)。

 

こののち、朝廷の地位もあがっていく

幕府もいろんなことを朝廷に報告するようになる 

 

 

山本博文 氏のコメント

政治権力もない状態になっても、

民を思う気持ちは誰にも負けないというのが

今でも天皇家に受け継がれている

 

 

食の文明開化 明治時代 19世紀

 明治天皇がひろめた肉料理

 日本人が普通に肉を食べるようになったのは明治天皇から

天武天皇から1200年続いた肉食禁止を解いた

明治2年 英国王子接待に際して

国家元首が晩餐を開かないといけないが西洋料理を食べたことがなかった

そこで西洋料理に対応できるよう肉食できるようにした

反対派の 修験者が乱入したり いろいろあったらしい

穢れると思われていたが 外交を重視した

しかし ナイフとフォーク マナーは

西五辻 文仲(にしいつつじ あやなか)に命じて習得するよう

天皇 皇后などと真似て食べようとした

西五辻が誤って芋を転がすと みな芋を転がしましたとさ というエピソードもあるほど

学習院大学資料館学芸員 長佐古美奈子氏が資料提供

明治8年の英国ミントン社の御旗御紋つきの(菊のマークに 上が赤下が白の細長い旗クロス 下は赤と白のロープの模様)まわりは紺色に金の模様

英国王室御用達のメーカーに発注 今の費用で数億円以上

その時のガラス瓶は今でも宮中晩餐会でつかわれている

 

その後 牛鍋 とんかつも普及し始める

とんかつはコートレットの応用

 

宮中晩餐会 大日本帝国憲法のお祝い

メニューがでていた 肉料理のオンパレード

牛肉

羊肉

七面鳥

デザートのところあたりにでていたのは

アスペルジ

シャルロット

アナ 氷菓

 これってなんだろう

 

 この時配られた手土産が ボンボニエール

ここからボンボニエールがはじまったといわれている と

 

今も流行っている食物

タピオカ 度々登場していた 例えば

明治8年のメニュー

牛羹タッピョーカ  タピオカ入りビーフスープ

 

 

 

山本博文氏のコメント

それまでは肉は身分の低いものが食べるという

これからは肉食してもいいのだという安心感へと

西洋料理を真似するだけでなく改良

 

久住昌之のコメント

下宿生でもまず箸とフォークと中華丼はある

こんなにいろんな国のものが最低限そろえて持っている国はない

 

ヤマザキマリのコメント

外国人がおどろくのが

何故こんなに美味しいイタリア料理が日本でたべられるのか

何故現地のピッツァコンクールで日本人が優勝したりするのか

外国の食事に対するモチベーションとレベルの高さ

 

 

 

 

 

最高に豪華な天皇のディナー 大正時代 20世紀

味の素食の文化センター

特別に資料公開

メニューカード1233点 天皇の料理番 秋山氏のコレクション

 

 

100年前 イギリスの皇太子を招待した時のメニューが一番豪華だったらしい

大正11年4月12日

大英帝国皇太子 エドワート・アルバート来日

日英同盟の破棄があってからの危機的状況の時のメニュー

病の大正天皇にかわり

20歳の裕仁親王(のちの昭和天皇)が出られた

宮中晩餐会がハイライト

出席者は120人

東郷平八郎なども参加

当時の費用で30円/1人 

今の値段で30万円 総額3600万円

秋山氏は英国の晩餐会に特別に入らせてもらい 勉強した

その集大成

その時のメニュー

 

前菜

(米 枚の右 下は亀の漢字)清羹 スッポンのコンソメスープ

 魴酒蒸  マナガツオの酒蒸し

羊肉煎焼 子羊のロースト

肥育鶏炙焼

(草冠 足 流の右側の漢字)菜

氷菓

 

続いて夜食で

龍蝦冷製  伊勢海老の冷製?

牛肉燻腿寒天寄

雛鶏衣掛

羊料理は英国の定番

ワインやブランデーは外国から取り寄せ

調理にも工夫 

マナガツオはくさみを消すため 香味野菜でマリネしてから調理など

ていねいに下ごしらえ シャンパンで

 統括料理長 西野剛氏

料理長 柿迫太陽氏が調理してくださった

 

 伊勢海老の冷製 伊勢海老とトリュフを交互に コンソメとじ

 

 マナガツオ酒蒸し 野菜とシャンパンに15時間漬け込み マッシュルーム エシャロット タイム またシャンパン&白ワインでオーブンで10分蒸しあげる

 

 

 子羊の香草パン粉焼き ラムチョップの部分 マスタードを塗り パセリ&パン粉

 レア風に焼き上がっていた

 皇太子の好物だったらしい

  

 スッポンのコンソメ 秋山氏の名刺のある浜松のスッポンの養殖場からスッポンを手に入れ 昭和天皇もこのまれ、視察にこられたことのあるところ

 海亀のスープのかわりにつくった 

  スッポンは冷めても白い脂が浮かない

 下処理 ネギ生姜 3日ほどはかかる

 スッポンの身が入っているところに注ぐ

 

スープは最初の印象を決めるものだから

力を注ぐべしと秋山氏の言葉があるそうだ

 

ヤマザキマリ氏のコメント

19世紀のタレーラン

書類よりよりよいシェフを用意しなさい

外交に美味しい料理はもう昔から と

  

 

日英友好の架け橋 スッポンのコンソメスープ

 

英国王室と皇室とのつながりはできたが

戦争でいったんたたれてしまった

その後

昭和50年 1975年5月7日 エリザベス女王来日

歓迎の宮中晩餐会

フルコースの最初に登場したのがスッポンのコンソメスープ